愛妻家というロマンスとグロテスク。

悪徳や犯罪、醜さや歪みを愛せるのが創作や芸術、表現というステージでありますが、それらの立ち位置やあり方に注意することもまた創作物を手掛けるものや愛好するものの責任であると思っています。正しくないものの正しくなさをあるがままに理解し、愛する正しさが必要です。

そういう理屈で、私は正しくない人間関係や感情や行為は当然創作物においては許され、また愛されてよいものと考えていますがそこに誤った認識があるなら話は別です。

 

明智小五郎に対する罵詈雑言を述べる読者もいれば、一方で愛妻家だと、明智夫妻は理想の夫婦だと評する読者も少なくありません。そうでしょうか。

明智探偵と人間豹との戦いにおいては結局よくて痛み分けで敵をまんまと逃がし、しかも被害の大部分は妻である明智文代が被りました。彼は配偶者を守り切れなかったわけです。だとすれば、本当に愛妻家であるなら探偵などという仕事は即刻廃業するべきなのではありませんか。探偵業に優先されるものなど最初からなかったのです。そんな男を愛妻家と呼ぶのですか。

 

また、明智文代の行方について。子どもができたので犯罪者から逃れるため身を隠したと考える読者もいるようです。グロテスクですね。

妻一人も守れないような私立探偵が、その職業を手放すこともせず子どもまで作るのですか。

子どもができたわけでなくとも、やはり犯罪者から守るため明智文代を隠居させたという話も聞きます。明智文代って探偵としての素質も高い、エリートですよね?夫に巻き込まれたせいで、そのような優秀な人物がこそこそと隠れ住まなければいけないのですか?世間ではこれを夫婦愛だと、理想の男女だと思うのでしょうか。愛していればそれでいいのか、出会いがドラマチックであればそれでいいのか、救ってやったからそれでいいのか。当時の時代背景を顧みてもあんまり非対等ではないでしょうか。

 

冒頭に述べたように、誤ちを愛せるのが表現の世界だと思っています。ここで述べたような、ある夫婦のあまりにも対等でない関係を愛するのも自由です。

ただ、グロテスクなものはグロテスクなものとして認識する誠実さ、愛好の責任があると言っているだけです。

 

さて、明智小五郎明智文代の性別が逆だったら、明智小五郎は夫を愛する理想の妻として語られたでしょうか。